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- 自粛は日本を殺す 浜松まつり中止で考えさせられたこと (03.20)
- 東北地方太平洋沖地震 ソーシャルメディアの強さ (03.12)
- ヒキヨセってこういうこと? (03.05)
- 続いて行く仲間 -『チャラ』ティー誕生の日- (03.02)
- 使命を祖父と共有できた瞬間 -音楽で世界は変えられる- (02.27)
自粛は日本を殺す 浜松まつり中止で考えさせられたこと
2011.03.20
ここ数日は、Smiles for Japanにかかりきりだったので、全くブログを書いている余裕がなかったが、ここはどうしても書かなくては、ということがあったので、筆を執った。
東北地方太平洋沖地震 ソーシャルメディアの強さ
2011.03.12
2011/3/11に発生した東北地方太平洋沖地震。最初の揺れのときはオフィス。横揺れが始まり、すぐに机の下に潜ったとき、目の前のチームメンバーが「津倉さん、震源地は東北だそうです」と、揺れながらスマホを片手に報告してくれた。このとき、若干の違和感とともに、ソーシャルメディアの果たす役割が大きい災害になるのだろうか、とぼんやり考えたことを覚えている。
ヒキヨセってこういうこと?
2011.03.05
最近、昔のご縁というのが、全く意図していなかったかたちで新たに繋がり直すことが多い。
新しい取引先にご挨拶をしに行った時のこと。一通り、商談が済んで、お互いのバックグラウンドなどを話しているとき、「あれ、その仕事、私も関わっていたんですけど」と言われ、もう一度お名刺を拝見すれば確かに字に見覚えがある。Amazon時代、自分の企画に連載をしてもらったある人のマネージャーさんだったことが判明。確かに、一度しかお会いしていなかったとはいえ、覚えていなかった自分に反省。と同時に、こういうご縁に感謝の想いを新たにする。
もしも自分が昔の仕事で無礼な態度を取っていたり、いい結果を出せなかったら、今回の出会いも険悪なものになっていただろう。でも、そうはならなかった。目の前の一つ一つを大事にすることが先に繋がっている。
引き寄せ、という言葉があると聞いたのだけど、それはやっぱり意志のチカラなんだろう。どうでもいい、と思って関わってきたものがヒキヨセルのはやっぱりダメなものが多いだろうし、逆もまた然り。うん。そういう気持ちは大切です。
続いて行く仲間 -『チャラ』ティー誕生の日-
2011.03.02
昨日(2011/3/1)は恒例となりつつある昔の会社のプチ同窓会。立ち上げから関わった洋楽のレコード会社で、自分は販売促進部のリーダーとして3年弱勤めた愛着のある会社。当時、25歳だった自分が一部署の立ち上げを採用からやらせてもらったばかりだけでなく、「面白い」と思ったアイディアは何でも試すことの出来る会社だった。手前味噌だが、一時期、流行したCD+DVDパッケージを本格的に売り出したのは自分のアイディアだったと思う。(その時の作品はこちら)
音楽業界を離れてしばらく経つけど、業界内の動向や今みんなが売り出そうとしているアーティストの話などを聞いていると、自分が心から楽しめる仕事をしてきたんだなぁ、と実感できる。もちろん、今も楽しいけれど、なんというか、仕事が遊び、というのを地でいっていた時間だった。
さて、写真を見ていただいた通り、当時の制作部長のFさんを中心に囲んでいるのは全員女子。もともとはFさんを囲む会だったので、光栄なことに男代表として招かれているんだけど、結局、いじられ役。MBA後のキャリアおよび暮らしぶりが音楽業界とあまりに違うので、「金持ちになったねー」とか(実際はそんなことないけど。。)、ネタにされつつ、心地よい時間を過ごす。
最後の方で、「今後、つっくんって何をするの?」と言われたとき、口をついて出たのは、「音楽で世界を変えるような、チャリティーみたいなことをしたい」という衝動的な一言。みんな、「え?!」
こうなると、途中で引っ込める訳にはいかないので、祖父とのエピソードも交えて、今の想いの丈を全部話した。話している間、みんなどんな反応をするか不安でもあったけど、返ってきたのはあたたかな賛意。音楽を心から好きでそれを仕事にしている人たちだから、みんな心のどこかでそういう想いを持っていたんだろうなぁ。。。
ちょっぴりしんみりした場を壊したのはゴリの「じゃあ、つっくんはこれからも『チャラ』ティー、って事で」という一言。
どこまで行っても、チャラくて熱い"つっくん"でいられる仲間と過ごした一夜はまたしても自分の足を前に進めてくれる。
新しいプロジェクトを始めたら、彼らにもきちんと伝えよう。
使命を祖父と共有できた瞬間 -音楽で世界は変えられる-
2011.02.27
土曜日(2011/2/26)、実家で祖父母に会ってきた。
高校卒業まで祖父母に育てられている俺にとって、祖父母は父親と母親としての存在であり、自分が安心して所属できる唯一の家族。祖父は昨年(2010年)の猛暑で熱中症にかかり、一時期体力が著しく落ちたが、現在はほぼ回復。もちろん、昔のようにはいかないが、受け答えもちゃんとしているし、自分の足で歩いている。でも、祖父ももう93歳。ある程度の覚悟はしているので、今まで以上に、俺は俺の想いを祖父に伝えようと色々と話しかける。
前回帰ったとき(2011年1月)、初めて祖父に、俺の使命「エンタテインメントで世界のボーダーを無くす」、を打ち明けた。転職もしたばかりだったし、「もっと地に足をつけろ」的な事を言われるかと思ったら、「それはいい、使命を持って生きるのは素晴らしいことだ」と激励された。涙が出そうになった。
その後、祖父が終戦を迎えた場所、インドネシア・スラウェシ島(旧セレベス島)のメナドを訪ねようと思っている、ということも伝えた。そうしたら、祖父がポツポツと語り始めた。
「メナドでいつ敵が来るかどうか、おびえていたときに、島の人は温かくもてなしてくれた。クリスマスか何かのときに、島の人たちが歌と踊りに誘ってくれてね、その時は戦争のことを忘れられたよ。人間なんて、ホントは簡単なものでみんな同じなんだ。でも、何かがおかしくなると戦争なんてことが起こってしまう」
衝撃だった。俺が言っている使命というのも自分の人生の実感から出た想い。だが、祖父はそれより遥かに厳しい極限状態で、同じような事を感じていた。祖父の想い、戦時中に感じた真実と、俺がやろうとしていることが繋がった瞬間。
今回も、祖父は前回のことを覚えていて、父にも、「ゆうまは音楽で世界の為になることをやろうとしている」と言っていたらしい。まだ、最初のステップすら踏み出していないし、これからも困難が待ち受けているだろうけど、俺は祖父の言葉と想いがある限り、使命の為に進んでいけるのだと思う。
祖父の孫として生まれて来れて、本当に良かった。