自粛は日本を殺す 浜松まつり中止で考えさせられたこと

2011.03.20

ここ数日は、Smiles for Japanにかかりきりだったので、全くブログを書いている余裕がなかったが、ここはどうしても書かなくては、ということがあったので、筆を執った。


あのね、"自粛"、って何ですかね? "不謹慎"って食べられるんですかね?

今も、被災地ではろくに食べられない、それ以上に、暖をとる事も叶わず低体温で亡くなる方もいる。家が流されて、思い出の品を探す事で日々を過ごしている人も多いと聞く。だから、被災地の大変な状況を、苦しい思いを(完全には出来ないけど)、僕たちは同じように共有していこう。ここまではOK。

で、それがなんで"自粛"という経済活動を殺す行動に繋がるのか。
僕たちが出来るのは、沈んでいる被災地の経済を支えていくこと。寒い思いをしている人たちに毛布や食料を届け、復興期には仮設住宅を建て、人手を送り、お互いに汗をかいていくことなのではないか。そして、その為にはお金がいる。毛布や食料はただではない。仮設住宅=家を建てる。ドラえもんがどこでもドアから出してくれる訳ではないのだ。

そんな中、僕の地元、浜松が世にもまれに見るアホな決断を下した。

浜松まつりは、毎年5/3-5/5に開催される全国有数のお祭りで、100万人の観光客が訪れるという。
観光収入の金額は公表されていないが、単純に一人1,000円使って10億円。10,000円で100億円。平均値を知るすべがないのだが、それでも少なく見積もって数十億円の収入がある計算となる。震災の影響で出足が鈍くなったとしても、それでも十億円レベルの収入を浜松市は捨てた事になる。

浜松は全国の地方都市の例に漏れず、経済は沈下している。
遠州特産工業(二輪・四輪、楽器、織物)生産統計は2007年は1兆7,306億3,563万8千円。2008年は1兆6,373億7,774万6千円。そして2009年は1兆173億2,560万4千円へとこの一年で6,000億円以上急激に落ち込んでいる。
このような状況で、十億円レベルの経済活動を捨てた、ということだ。

同時に、祭りというものは本来から「人知を超えたものを敬い」、「悪いものを遠ざける」という二面が含まれている。浜松まつりは子供の健やかな成長を願い「悪いものを遠ざける」ということが大本にある。今こそ、まつりを「やるべき」ときだと思うのだ。

本当の意味で東北を支えるのであれば、まず、被災地以外が元気に経済活動を続け、その一部を義援金、復興支援金に回して行くというのが本筋ではないか。浜松まつりの1%を寄付することで被災地には数千万円が届く。まつりを無くして、このレベルの支援は可能なのか。

浜松だけではなく、被災地以外の全ての地方自治体に、同じ事を問いたい。

東北地方太平洋沖地震 ソーシャルメディアの強さ

2011.03.12

2011/3/11に発生した東北地方太平洋沖地震。最初の揺れのときはオフィス。横揺れが始まり、すぐに机の下に潜ったとき、目の前のチームメンバーが「津倉さん、震源地は東北だそうです」と、揺れながらスマホを片手に報告してくれた。このとき、若干の違和感とともに、ソーシャルメディアの果たす役割が大きい災害になるのだろうか、とぼんやり考えたことを覚えている。


現在、3/12の23:30。まだ余震は続いている。でも、このたった1日半で、僕たちはものすごい大きな悲劇を目の当たりにし、同意に、どれだけの善意がソーシャルメディアを駆け巡ったかに圧倒された。それは既存のメディアや通信インフラに変わる存在になったと言える。いくつか、感じたことをまとめてみる。

1. インターネットベースのサービスの強さ
インターネットだって結局は突き詰めれば有線、なのだけど、携帯で通話が出来ない時ですら、僕のiPhoneはTwitterやFBの情報をキャッチし続けた。アクセスするたびにどこか不安な気持ちを支えてくれたのは、その意外な頑健さ、だった。

2. ソーシャルメディアの速さ
これは功罪あるのだろうけど、僕は功、の方が大きいと思った。誰かが助けを求める声や、有用な情報がTLをすぐに駆け巡る。RTという手段をもった僕たちは、たとえ一人一人のフォロワーは少なくても、一斉に伝播する力を手にしているのだ。もちろん、数万人規模のインフルエンサーをレバレッジする手法も有効だった。

3. 根底に流れる善意
たとえ、情報がデマだっとしても、それをすぐに訂正される。同時に、公式RTという、デマの拡散を最小限に抑える手法が紹介される。同時に、災害時だからこそ、日常を思い出させてくれる朗らかなツイートだってあった。FBのポストだってそうだ。僕は、人間がもつ善意によって、健全な成長を続けるネットワークを目の当たりにした。

そんななか、僕に出来ることは何かと考え、ギルト・シティで初となるマッチング・ギフト方式の義援金募集を始めた。途中の紆余曲折はあったものの、結果、数時間で準備が終わり、セールとなったのはひとまず良かったと思っている。

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余震はまだ続いているし、寒さも厳しい。被災地の方にとって、これから復興という長い道のりが待っている。
大切なのは、ソーシャルメディアに速さだけでなく、持続性、という4つめの美徳を加えて、風化させてないことと思った。

ヒキヨセってこういうこと?

2011.03.05

最近、昔のご縁というのが、全く意図していなかったかたちで新たに繋がり直すことが多い。

新しい取引先にご挨拶をしに行った時のこと。一通り、商談が済んで、お互いのバックグラウンドなどを話しているとき、「あれ、その仕事、私も関わっていたんですけど」と言われ、もう一度お名刺を拝見すれば確かに字に見覚えがある。Amazon時代、自分の企画に連載をしてもらったある人のマネージャーさんだったことが判明。確かに、一度しかお会いしていなかったとはいえ、覚えていなかった自分に反省。と同時に、こういうご縁に感謝の想いを新たにする。

もしも自分が昔の仕事で無礼な態度を取っていたり、いい結果を出せなかったら、今回の出会いも険悪なものになっていただろう。でも、そうはならなかった。目の前の一つ一つを大事にすることが先に繋がっている。

引き寄せ、という言葉があると聞いたのだけど、それはやっぱり意志のチカラなんだろう。どうでもいい、と思って関わってきたものがヒキヨセルのはやっぱりダメなものが多いだろうし、逆もまた然り。うん。そういう気持ちは大切です。

続いて行く仲間 -『チャラ』ティー誕生の日-

2011.03.02

昨日(2011/3/1)は恒例となりつつある昔の会社のプチ同窓会。立ち上げから関わった洋楽のレコード会社で、自分は販売促進部のリーダーとして3年弱勤めた愛着のある会社。当時、25歳だった自分が一部署の立ち上げを採用からやらせてもらったばかりだけでなく、「面白い」と思ったアイディアは何でも試すことの出来る会社だった。手前味噌だが、一時期、流行したCD+DVDパッケージを本格的に売り出したのは自分のアイディアだったと思う。(その時の作品はこちら)

音楽業界を離れてしばらく経つけど、業界内の動向や今みんなが売り出そうとしているアーティストの話などを聞いていると、自分が心から楽しめる仕事をしてきたんだなぁ、と実感できる。もちろん、今も楽しいけれど、なんというか、仕事が遊び、というのを地でいっていた時間だった。

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さて、写真を見ていただいた通り、当時の制作部長のFさんを中心に囲んでいるのは全員女子。もともとはFさんを囲む会だったので、光栄なことに男代表として招かれているんだけど、結局、いじられ役。MBA後のキャリアおよび暮らしぶりが音楽業界とあまりに違うので、「金持ちになったねー」とか(実際はそんなことないけど。。)、ネタにされつつ、心地よい時間を過ごす。

最後の方で、「今後、つっくんって何をするの?」と言われたとき、口をついて出たのは、「音楽で世界を変えるような、チャリティーみたいなことをしたい」という衝動的な一言。みんな、「え?!」

こうなると、途中で引っ込める訳にはいかないので、祖父とのエピソードも交えて、今の想いの丈を全部話した。話している間、みんなどんな反応をするか不安でもあったけど、返ってきたのはあたたかな賛意。音楽を心から好きでそれを仕事にしている人たちだから、みんな心のどこかでそういう想いを持っていたんだろうなぁ。。。

ちょっぴりしんみりした場を壊したのはゴリの「じゃあ、つっくんはこれからも『チャラ』ティー、って事で」という一言。

どこまで行っても、チャラくて熱い"つっくん"でいられる仲間と過ごした一夜はまたしても自分の足を前に進めてくれる。
新しいプロジェクトを始めたら、彼らにもきちんと伝えよう。



使命を祖父と共有できた瞬間 -音楽で世界は変えられる-

2011.02.27

土曜日(2011/2/26)、実家で祖父母に会ってきた。

高校卒業まで祖父母に育てられている俺にとって、祖父母は父親と母親としての存在であり、自分が安心して所属できる唯一の家族。祖父は昨年(2010年)の猛暑で熱中症にかかり、一時期体力が著しく落ちたが、現在はほぼ回復。もちろん、昔のようにはいかないが、受け答えもちゃんとしているし、自分の足で歩いている。でも、祖父ももう93歳。ある程度の覚悟はしているので、今まで以上に、俺は俺の想いを祖父に伝えようと色々と話しかける。

前回帰ったとき(2011年1月)、初めて祖父に、俺の使命「エンタテインメントで世界のボーダーを無くす」、を打ち明けた。転職もしたばかりだったし、「もっと地に足をつけろ」的な事を言われるかと思ったら、「それはいい、使命を持って生きるのは素晴らしいことだ」と激励された。涙が出そうになった。

その後、祖父が終戦を迎えた場所、インドネシア・スラウェシ島(旧セレベス島)のメナドを訪ねようと思っている、ということも伝えた。そうしたら、祖父がポツポツと語り始めた。

「メナドでいつ敵が来るかどうか、おびえていたときに、島の人は温かくもてなしてくれた。クリスマスか何かのときに、島の人たちが歌と踊りに誘ってくれてね、その時は戦争のことを忘れられたよ。人間なんて、ホントは簡単なものでみんな同じなんだ。でも、何かがおかしくなると戦争なんてことが起こってしまう」

衝撃だった。俺が言っている使命というのも自分の人生の実感から出た想い。だが、祖父はそれより遥かに厳しい極限状態で、同じような事を感じていた。祖父の想い、戦時中に感じた真実と、俺がやろうとしていることが繋がった瞬間。

今回も、祖父は前回のことを覚えていて、父にも、「ゆうまは音楽で世界の為になることをやろうとしている」と言っていたらしい。まだ、最初のステップすら踏み出していないし、これからも困難が待ち受けているだろうけど、俺は祖父の言葉と想いがある限り、使命の為に進んでいけるのだと思う。

祖父の孫として生まれて来れて、本当に良かった。



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